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山旅はん坊背負って

1997年、山歩きを趣味としていた僕たち夫婦に娘が生まれました。生後6ヶ月の頃からその娘を山歩きに連れ出すようになりました。どうせ娘にとっては何も憶えてはいないことでしょうから、文章にしておけば、いずれそれを読んで感想を持つこともあるだろうと、珍しく一念発起して、山へ連れ出してからの約1年間を書きとめたのがもう5年前(この数字は毎年増えている)になります。

ずっとフロッピーディスクに入ったままになっていたのを、別に人に読んでもらって困ることが書いてあるわけでなし、その後、環境も変わって、今では仕事上でも山とは切れなくなってしまったわけですし、広い世の中にはこんな体験でも参考になる人もいるかと思い、自分のホームページ上で紹介することにしました。お暇な方はまずは長いプロローグからお読みください。
赤岳 飛龍山禿岩 常念岳
赤岳 飛龍山禿岩 常念岳
’98
.3.24
 升形山 3.31  淵ヶ沢山 4.7  淡雪山 4.21  古部山〜
徳並山
5.20  金峰山 5.25  霧ヶ峰
6.2  赤岳 6.9  瑞牆山 6.16 仙丈ヶ岳 6.23  縞枯山 6.30 西穂高岳 7.8  北岳
7.14  御嶽山 7.22 甲斐駒ヶ岳 7.29  高ボッチ 8.25  富士山 9.9  蝶ヶ岳 10.15  小楢山
9.17  赤岳 10.20 常念岳 10.27  三ッ峠水雲山 11.4  滑沢山 11.10  飛龍山 11.25  牛奥ノ雁腹摺山
11.17  両神山 12.1  高登谷山、女山 12.8  戸倉山 12.9 大西山 12.15  お坊山 12.22  戸屋山
’99.1.20  御正体山〜文台山 1.26  兎藪 2.2  富士見山 2.9 水ヶ森 3.3 一ツ木山 3.24 立場山

プロローグ  自己紹介を兼ねた長い前書き

大阪の南のターミナル、天王寺駅から徒歩10分、南海電鉄の路面電車が走る阿倍野筋を一歩西に入った長屋の片隅が僕の生家だ。二階の物干し台の上からは電車通りにある証券会社のネオンサインがよく見えた。それが点滅するのを飽かずながめていたのを思い出す。小学校卒業まで、途中何回か転居しながらも大阪で過ごし、中学入学と同時に名古屋に移り、高校卒業までそこで過ごした。

そんな純粋な都会っ子だった。自分の周りにない自然に憧れたのだろうか。いつしか写真やテレビで見る雪を頂いた高い山の姿に強くひかれるようになっていった。

何で山が好きになってしまったのか結局のところよくわからない。中学生の終わりころ愛読した北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』に描かれたアルプスの見える町松本での学生生活や情景にも多分に影響されたのかもしれないし、アルプスに憧れたからそれを読んだのかもしれない。意外とそれは生まれた時から決まっていた運命的なものかもしれない。

高校に入ってからその傾向が顕著になり、山の本を買ったり図書館で借りたり、あげくにはひとりで名古屋近郊の低山をほっつき歩いたりした。

山の中にあるという理由で山梨県にある大学を選び(学費も安かった)、入学と同時にワンダーフォーゲル部に入部した。

ところがどうだろう。大学に入ったらバリバリと色々な山に登ってやろうと思っていたのが、初めてひとりで暮らすようになって、親や高校の束縛(ひどく校則の厳しい高校だった)がなくなった自由な学生生活がおもしろすぎた。せっかく束縛がなくなったのにクラブに縛られるのが次第にうっとおしくなり、幽霊部員化して、おのずと山にも登らなくなってしまった。

高校時代の僕にとっての山は、それに憧れそれを想うことで色々な抑圧から自分の心の均衡を保つための一種の安定剤だったのだろう。

それでも大学卒業後は学生時代にアルバイトをしていた甲州富士見三景のひとつ、御坂峠の茶店にそのまま就職してしまったのだから山がまったく嫌いになってしまったわけではなかったらしい。とはいっても、茶店から望める河口湖を巡る山々の名前を富士山を除いては知らなかったのだからお粗末なものだ。




就職先の茶店は井伏鱒二や太宰治ら文人の訪れも多く、なかでも昭和十三年の滞在時のことを題材に書かれた太宰の小説『富嶽百景』の舞台として知られている。その縁で毎年6月のいち日をあてて山梨桜桃忌として行事を行ってきた。その前夜には太宰研究者やファンが集って宴を張る。その世話人のひとりに甲府在住の日本山岳会員で太宰の研究者でもある山村正光さんがいた。つとに有名な『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)の著者である。

この本を買って読んだ事が僕に山登りを再開させた決定的なきっかけとなった。昭和62年初夏のことだ。

機は熟していたのかもしれない。

当時僕はまだ学生だった妻と交際を始めた頃で、僕の休日にはよくドライブしたものだった。山梨のこととて山岳ドライブとなることが多く、奥秩父の大弛峠へ行ったのもそんな中のひとコマだった。

標高2300メートルの峠はすでに亜高山帯で、あたりに絶えて久しく嗅いだことのなかった針葉樹の匂いが漂っていた。少し歩きたくなってサンダルばきのまま遊歩道のようになっている大弛小屋の裏から続く径を辿ってついに前国師まで登ってしまった。

樹林が途切れてあたりが見渡せる。雲が湧いては流れていき、その切れ間に黒々とした見知らぬ山体が見え隠れしているにすぎない。そんな景色なのに、ものの30分も登っていないのに、やっぱり自分の足でたどりついた山頂には充実感があった。

車で行くだけのところにはもう飽き飽きしていたのである。また山に登ろうと思った。

そこで参考にしようと思って買い求めたのが旧知の山村さんの本だった。

夜中までかかって一気に読んだ。名を知っている山もあるものの大半は初めて聞く山だった。山が好きだといっても人口に膾炙された山しか知らなかった僕にとって目からうろこが落ちる思いだった。

深田久弥さんになぞらえていうならば、百の頂きに百の名があり百の歴史があることを知った夜だった。こんなあたりまえの事にいままで気付かずにいたのである。




山登りどころではない、仕事で忙しい夏休みが終わって、初秋の御坂黒岳と釈迦ヶ岳を皮切に僕と妻の、地元の山々への巡礼の日々が始まった。デートの場所が歩いて行く山になったわけだ。田舎育ちの妻も登山という遊びがまんざら嫌いでもなさそうだった。

その後山村さんが上梓された本はその都度購入し、年に一度桜桃忌の時にお会いする際に署名をいただいたりしたので、おや、こんなところにも俺の読者がいると親しく声をかけて下さるようになった。それどころか数年前には日本山岳会に紹介までしていただいた。読者冥利に尽きるとはこのことである。

僕の山歩きは、わずかの例外を除けばいつも妻と二人きりでいつも日帰りだった。何も好んでそうなったのではなく、仕事が観光業なので日曜が休みでなく、しかも決まった曜日に必ず休めるわけでもないので仲間を得づらい。また連休もほとんどとれないのでいきおい日帰りにならざるを得ない。

しかし物は考え様。およそ計画性のない僕には人と約束して日時を決めて山に登るなんていうのは気が重いし、大体日帰りの山なんて前の日の天気予報を見てやっと計画を立てる位がちょうどいい。また、山梨在住という地の利を生かせば日帰りでもかなりの山が射程内に入るのである。しかも平日はどこへ行っても空いている。

結婚前3年結婚後7年合わせて10年、晴れた休日にはふたりで県内や周辺の山々を訪ね歩く日々が続いた。

子供はいなかった。欲しいと思わなかった。自由気ままに動き回れることが何より貴重だった。自分たちが子供を必要とする夫婦だとは思わなかった。折々の山の姿に触れて物言わずともお互い感動できればそれでいい。夫婦ふたりという最小の家庭で何ら不満はなかったし、そのほうがいいとさえ思っていた。

友人が赤ん坊や小さな子供を連れて遊びにきても、大変だなあ、とむしろ気の毒に思うくらいで、自分が子供を持つことを想像することはあってもあくまで想像であって、現実になることなど思いもよらなかった。それが現実になってしまった。

妻から打ち明けられ時、これは困った事になったというのが偽らざる気持ちだった。これでふたりの山遊びも当分できまいと思った。

子供はいらんと広言していた僕に遠慮していたのか、妻も子供が欲しいなどとは言ったことはなかったが、実際に身ごもった妻がどう考えていたかはわからない。生まざる性には生む性をついに理解し得ない部分があるのかも知れない。

打ち明けられた夜はいろんな思いが頭を駆けめぐってよく眠れなかった。しかし翌朝には腹は決まっていた。
「ま、どうにかなるだろう」
実に無責任だがこれしかなかった。

僕たちはその4年前から、店主の好意で、それまで通勤していた標高1300メートルの峠の茶店に夫婦で住み込みで働かせてもらうようになっていた。隣の家まで6キロ離れている一軒家である。そんな場所に住んでいられるのも夫婦ふたりだけの気楽さだった。仕事は山の中、休日は山へ遊びに行くという実にヤマシイ生活である。

そんなわけだから、お腹に赤ん坊がいるといってもおとなしくしていられるはずもなく、相変わらず休日ともなれば早起きして山遊びを続けていた。さすがにとんでもない藪をこぐような山は敬遠したが静かな山を求めて歩き回っていた。もっとも平日ならどんな人気のある山でもたいてい静かだ。しかし、妻が日に日に大きくなっていくお腹をさすりさすり山に登るのも妊娠7ヶ月の時に登った小太郎山を最後にさすがに自粛ということになった。

その後の僕は送迎つきの単独行者となった。清里から県界尾根を赤岳へ、キレットを経て権現岳へ登り返し天女山へ下るという、車1台では厄介なので登り残していた南八ヶ岳の主稜線を駆け足で縦走したりした。呑気なものだ。

さて、生まれてくる子供の名前である。男なら「稜」女なら「渓」と決めていた。好きな山から連想され、発音しやすい字を選んだ。特に発音しやすいことはこれから一生呼び続けなければならないのだから重要で、その点では犬や猫の名前とまったく同じである。



平成9年10月15日。僕がはじめて仙丈ヶ岳に登った翌朝、渓は生まれた。いかにも秋らしい空気の澄み切った、それでいて暖かなとてもいい日だった。ガラスで隔てられた部屋の中で他の赤ん坊と一緒に寝ている娘を僕は照れ臭くてよく見なかった。

産院の窓からは新雪の富士山がやけに大きくくっきりと見えていた。『富嶽百景』のなかで、御坂峠に来た遊女の団体を、太宰治が富士山に「おい、こいつらを、よろしく頼むぜ」とお願いする場面がある。太宰ならずとも「この娘をよろしく頼みます」と富士山にお願いする気になった。

ともかく僕はあと半年で40歳になろうというときになって、初めて人の親となったのである。

大過なく産院で一週間を過ごした渓は1300メートルの峠に戻ってきた。人里離れた場所だが、職住近接なので、妻が子供からほとんど離れられない最初のひと月も仕事の合間に僕がちょっとした用事は片付けることができて、その点では好都合だった。一緒に働いている人達にも随分世話になった。

渓は最初から手のかからない子だった。ふた月目に入ると夜寝れば朝まで起きない始末でほとんど夜泣きもしなかった。山の中で近所はいないし医者も遠いしとまわりは心配したが、幸い健康そのもので、定期検診以外に医者にかかることもなかった。

妻の産後の肥立ちも極めて順調で、3週間もするともう店の仕事を手伝っていた。これも日頃の山登りの功徳といえるかもしれない。

一方、僕はといえば渓が生後1ヶ月を過ぎると、またぞろひとりで近所の藪山を飼い犬のクロとともに歩きまわりはじめていた。

ひとりの山はそれはそれで味わい深く楽しいものだったが、10年もふたりで山歩きをしていれば、山で出会う景色をひとりだけで見ているのがもったいなく思われ、といってそれを言葉にして伝えるのはもどかしく、またその良さを知っている妻にはそれがかえって辛いことかもしれないと思ったりもした。

年が明け、冬の休暇で僕の実家がある名古屋に帰省した折、ふと立ち寄った近所の古本屋で尾崎隆さんの『ヒマラヤの子守傘』(河出書房新社)という本を発見した。

登山家の尾崎さんの名前はなんとなく知っていたし、ヒマラヤの高峰に乳児を連れ登った登山家がいて、それが賛否両論を巻きおこしたことも何かで読んで知っていたが、それが尾崎さんだとは知らなかった。

この本を、なんとまあ凄いことをする人がいるものだなあ、と溜息まじりで読んだものだったが、春になったら一緒に渓を山へ連れ出せないものだろうかと漠然と考え始めていた僕にとって、ヒマラヤの高峰と日本の低山、プロの登山家と日帰りハイカーという次元の違いはあるが、非常に勇気づけられることも多かった。今までまったく必要がなかったので知らなかった、山登りにも使えるほどのベビーキャリアがあるのを知ったのも収穫だった。

3月に入ると陽気もよくなり、地元の低山からもこの年の観測史上最高を記録した未曽有の大雪もさすがに消え始めた。

渓は妻の実家の熊本への帰省もなんなくこなし、少々連れ回しても風邪もひかなければ疲れたふうにも見えず、これならそろそろ山に連れて行って良いのではと思い始めた。寒がりの妻も春ともなればさすがに御無沙汰だった山歩きを再開したくなっていた。

そうなると、とにかく背負っていく道具をそろえなければ話にならない。カタログを見ると3社からベビーキャリアが売られていた。登山用品店をまわって実際に手にとって較べてみて、それぞれ一長一短があるように感じたが、頭部の保護が行き届いているように思えたという点で尾崎さんが使ったのと同じノルウェーのベルガン社の物にした。

あとの装備は別段買い足すものはなかった。ベビーキャリアにはおしめなどの小物くらいしか収納できないので、赤ん坊を背負わない方は二人分の装備を背負うことになる。僕たちは日帰りハイキングとしては大きめのザックを使っていたので何とかなったが、それでも今までにない
重荷をお互いに背負って登ることになった。



もとより高邁な思想があって赤ん坊を山に連れていくわけではない。山歩きを共通の楽しみとする夫婦に子供ができた。それでも山には行きたい。預けるわけにはいかぬ。となれば一緒に行くしかない。 こんな単純な論法に過ぎない。親の身勝手には違いない。

そんな僕たちが渓を連れて山を歩きだして無事一年が過ぎた。子供の成長は早いもので、初めて山に連れて行った時はまだ這うこともかなわず離乳食がはじまったばかりで哺乳瓶が手離せなかった渓も、今ではベビーキャリアに乗せようとすると自分で歩きたがって泣いたりもするし、大人と同じ食事の半分ほどもたいらげる健啖家だ。

それでもこの1年の事が彼女の記憶に残るはずもない。僕たちの記憶だって日がたてば薄らいでゆく。

山は、調べて、登って、書いて完成すると何かで読んだ。僕の山登りは、少し調べて、登って、飲む、というパターンの繰り返しだった。でもこの、渓を背負って歩き始めてからの1年の記録くらいはせめて飲みながらでも書き残しておこうという気になった。

この1年渓を背負って訪れた山はもう何度目かの訪問となる親愛なる山が多かった。つまり、この1年の山行を語ればおのずと今までの僕と妻の山をを語ることにもなる。

これは、渓のために書き残す記録であるとともに、山というものに興味を抱いて25年たった僕の、今における『山の憶ひ出』でもある。いずれ渓もこの文章を読めるようになるときがくるだろう。その時彼女はどんな感想を持つだろう。

この記録を我々夫婦の山歩きの一里塚にするとともに、オムツの換え方も知らなければ、普段あまりいっしょに遊んでやることもしない「育児なし」の親父。娘をただ自分の好きな山に背負って登るしか能のない親父のせめてもの罪ほろぼしとしよう。


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